島原大変・肥後迷惑

雲仙眉山の崩壊

1991年には普賢岳平成溶岩ドームの成長が始まり、6月3日16時8分にこのドームの崩壊がきっかけとなって火砕流が発生しました。
時速80kmにも達して流下した高温の火砕流は、警戒中の消防団員や調査中の火山学者など、43名の命を奪った災害ですが、過去には日本史上最大の火山災害島原大変肥後迷惑」を引き起こしました。
産業技術総合研究所地質調査総合センター3D地質図(火山地質図:雲仙)を加工産業技術総合研究所地質調査総合センター3D地質図(火山地質図:雲仙)を加工

寛政4年(1792)、有明海から島原湾にかけての沿岸一帯で、死者1万5000人以上という大きな災害が発生しました。
この異変は、噴火・地震・津波が一つになった極めて特異なものでした。
変動の経過を追って、大惨事に至るまでの半年間を見てみましょう。

寛政3年10月8日から、島原半島の西部を中心に、日に3~4回と鳴動(めいどう:大きな音を立てて動くこと)を感じるようになりました。
11月10日には地震も強く、半島の西部の小浜村で家や堀に損傷を生じ、山番小屋にいた老夫婦が、崖崩れのために圧死しました。

寛政4年に入ったころから、山の鳴動が激しくなって来て、1月18日夜、雲仙の普賢岳が噴火しました。
この噴火は20日ごろまで盛んで、その後は次第に静かになりましたが、2月4日から山の東北にある穴迫谷で活動が始まり、6日には煙や砂礫を噴出し始め、9日には溶岩の流出が認められました。

29日には普賢岳と穴迫の中間にある蜂の窪でも活動が始まり、両者の溶岩は合流して徐々に山を下って行きました。

噴火見物の登山者が昼夜引きも切らないと聞いた島原城主の松平忠恕は、無用の見物禁止を布告し、領内の侵食・僧侶を集めて異変の終結を祈願させました。
しかし、3月1日夕方からは、これまでになく強い地震が起こり始め、その度に島原の町の背後にある眉山(前山)から土砂や岩石がころげ落ちて来ました。

ここに至って藩では非常時の持ち場を決め、最悪の場合の立ち退き計画を立案し、人々を避難させる船の手配を進めました。
松平忠恕の庶子など「上々様」は、奉行・目付を含む藩士の一部や医師・料理人とともに、3月2日、半島北部の森山村へ移った。
月末に予定されていた江戸さん金の出発延期も決定されました。

島原のあちこちで地割れや地下水の異常が見られました。
3月9日に眉山の一部が前触れもなく崩れて人々を驚かせました。
しかし、自身は次第に収まる兆しを見せ、中旬を過ぎると数も減って来て、避難していた人も徐々に町に帰り始めました。

4月1日、あたりが闇につつまれたころ、地震が2度ありました。
そのすぐ後、何百何千の雷が一度に鳴ったような、もの凄い鳴動が聞こえました。
あれは海のほうだろうか、直ちに場内から見廻りの者が出発しました。
大手門を出てみると、町は真っ黒で何もわからず、至る所から悲鳴と叫び声が聞こえて来る。
何か大変なことが起こったらしい。

夜が明けて、始めて事情がわかりました。
眉山の山体の半分ほどが無くなっていました。
城下町は泥海と小山と化し、海には今まで見たこともない小島がいくつも出来ていました。
今の九十九島です。

災害はこれだけではありませんでした。
海になだれ込んだ大量の岩石土砂は、島原湾から有明海一帯に激しい津波を引き起こしました。
一連の異変で、島原では約1万人の死者が出ましたが、津波をを予想だにしていなかった対岸の肥後領では約5000人の溺死者が出ました。

この災害の特徴は、悲劇を知らないうちに刻々と準備をされていたこと、それが西から東へと移動して来たことです。
その過程は現代の研究者によって明らかにされつつあります。
山体崩壊とそれに伴う津波の発生が原因の大災害、日本列島の火山ではいつ起きても不思議ではないこの現象を記憶に留めてください。

 

引用:近藤出版 日本史小百科22 災害 より