災害のまとめ本 方丈記

方丈記とは?
鎌倉時代に鴨長明によって随筆されました。
鴨長明が晩年に京の郊外にある日野山に小庵をむすび隠棲しました。
庵に住みつつ当時の世間を観察し書き記した記録であることから、自ら「方丈記」と名づけました。

自らが経験した天変地異に関する記述を書き連ねており、歴史史料としても利用されています。

安元の大火

安元3年4月28日(1177年5月27日)午後8時頃、都の東南(現在のJR京都駅付近か)で、舞人の宿屋の火の不始末が原因で出火した。
火はまたたく間に都の西北に向かって燃え広がり、朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などが一夜のうちに灰燼に帰した。
公卿の邸宅だけでも16軒、一般家屋に至っては都の3分の1が焼失した。死者は数十人(『平家物語』の記述では数百人)であった。

治承の竜巻

治承4年(1180年)4月、中御門大路と東京極大路の交差点付近(現在の京都市上京区松蔭町、京都市歴史資料館の辺りか)で大きな竜巻(長明は「辻風」と記述)が発生した。風は周囲にあるものをあっという間に飲み込み、家財道具や檜皮、葺板などが、あたかも冬の木の葉のように宙を舞った。
風の通ったあとには、ぺしゃんこに潰れたり、桁や柱だけになった家が残された。竜巻は市街地を南南西に向かって走り抜け、現在の東本願寺の手前辺りで消滅したものと思われる。

養和の飢饉

養和年間(1181ー82年)2年間にわたって飢饉(養和の飢饉)があり、多くの死者が出た。旱魃、大風、洪水が続いて作物が実らず、朝廷は様々な加持祈祷を試みたが甲斐なく、諸物価は高騰し、さらに翌年には疫病が人々を襲った。仁和寺の隆暁法印が無数の餓死者が出たことを悲しみ、
行き交うごとに死者の額に「阿」の字を書いて結縁し、その数を数えたところ、養和2年4月・5月の左京だけで、42,300人余に達したという。
なお、この飢饉は福原遷都や、源頼朝・源義仲をはじめとする各地での武力蜂起とその追討の影響によって拡大した面があるが、方丈記にはその点は触れられていない。

元暦の地震

元暦2年7月9日(1185年8月6日)、大きな地震が都を襲った。
山は崩れ海は傾き、土は裂けて岩は谷底に転げ落ちた。
余震は3か月にもわたって続いたという。

『徒然草』、『枕草子』とならぶ「古典日本三大随筆」に数えられる『方丈記』。
機会があれば読んでみてください。