あなたはまだ、本当の備えをしていない

彼は、毎朝のように玄関の鍵を二度確認し、非常食の在庫を点検するのが日課だった。

地震や台風、火災に備えていることに誇りを持っていた。

だが、その日、彼の家に届いた一通の手紙が、彼の備えが本当の意味で何も守っていなかったことを知らせた。

「あなたはまだ、本当の備えをしていない」

白い封筒に、黒々と書かれたその文言。

それは匿名で、差出人もなければ、差し出し場所も記載がなかった。

彼は手紙を見つめながら、微かな不安を感じたが、同時に疑念を抱いた。

これは誰かのいたずらだろう、と。

しかし、どこか胸の奥に不安がくすぶり続けていた。

その日から、彼の生活は少しずつ狂い始めた。

夜、寝る前に窓の鍵を三度確認し、非常食は期限が切れていないか再点検する。

そして、家の隅々まで見回りをする。

まるで何かが彼を見つめているような気配が、常に背中にまとわりついていたのだ。

彼は次第に不安に取り憑かれ、日中も落ち着かなくなった。

仕事中も集中できず、何度も手紙のことを思い返しては、胸の中に広がる不安を感じていた。

誰が、何の目的でこんな手紙を送ってきたのか。何度も頭の中で考えたが、答えは出なかった。

彼は同僚に心配されるほど顔色を悪くし、夜もほとんど眠れなくなっていった。

二週間後、再び封筒が届いた。

同じ白い封筒に、同じように黒々と書かれた言葉があった。

「あなたはまだ、本当の備えをしていない」

今度は、彼の心の中で何かが切り替わる音がした。

誰かが彼を見ている。何か大きな危険が、彼の生活に忍び寄っているのではないか。

彼はそれから、家の周りに防犯カメラを取り付け、ガラスには防犯フィルムを貼り、さらには毎晩、家の周囲を巡回するようになった。

だが、何も起こらなかった。

カメラにも何も映らず、家の周りには足跡ひとつない。

静かな夜が続くだけだった。

彼はさらに不安を抱え、防犯グッズを次々と購入し、家はまるで要塞のようになっていった。

しかし、心の中の不安は決して消えることはなかった。

ある夜、彼は不安を抱えたまま眠りに落ちた。

夢の中で、彼は暗い部屋にいた。

その部屋の中央には、大きな鏡があり、そこに映った自分自身が彼をじっと見つめていた。

鏡の中の彼は、にやりと不気味な笑みを浮かべて、こう言った。

「本当の備えを忘れているのは、お前自身だ」

目が覚めた彼は、冷たい汗で全身がびっしょりと濡れていた。

彼は、ふとリビングの隅にある古い家族写真に目を留めた。

そこには彼と、今はもういない妻と娘が写っていた。

彼はその写真を見つめ、心の中で何かが崩れ落ちる音を感じた。

彼が守るべきだったもの、それは家でも食料でもなく、家族だったのだ。

彼は思い出した。

妻と娘が生きていた頃、家族で過ごした平和な時間、笑い声、そして日常の中のささやかな幸せ。

彼はその時には気づかなかったが、それこそが本当の備えであり、守るべきものだった。

非常食や防犯カメラはもちろん重要だが、それ以上に大切だったのは、家族と過ごす時間、一緒に笑い合う時間だったのだ。

本当の備えとは、愛する人たちと共に生きるための準備、日々の絆を大切にすることだったのだ。

彼はそれを失った後にしか気づけなかった。

そして、それに気づいた今、彼の家はどれだけ鍵をかけても、どれだけ監視カメラを取り付けても、もう二度と本当の安心は戻らなかった。

彼は静かに封筒を破り捨て、写真を手に取った。

そして、涙が止まらなかった。涙が頬を伝い、写真の上にぽつりと落ちる。

彼は家族と過ごした日々を思い返し、心の中で彼らに謝罪した。

「もっと早く気づいていれば…」

彼の声は震え、かすれていた。

彼は写真を胸に抱き、しばらくその場に座り込んだ。

涙が止まらず、心の中には後悔と悲しみが渦巻いていたが、同時に少しだけ安堵の気持ちもあった。

少なくとも、彼は今、何が本当に大切だったのかを理解していた。

これからは、失ったものを忘れずに生きていこうと決意した。

防犯カメラや鍵の確認は続けるだろうが、それ以上に、自分の心に向き合い、亡くなった家族との絆を忘れないようにしようと思ったのだ。

夜が更けていく中で、彼は初めて少しだけ心の重荷が軽くなるのを感じた。

彼にとって、本当の備えとは、外からの脅威に備えることではなく、自分の心の中に平和を取り戻すことだった。

写真をそっと元の場所に戻し、彼は静かに立ち上がった。

そして、リビングの窓から夜空を見上げた。星が静かに輝いていた。

「もう大丈夫だ」

彼はそう呟いた。

その声は、暗いリビングに静かに響き、彼の心の中で小さな光となった。

彼はこれからも生きていく。

その心の中に、妻と娘の笑顔を抱きながら。