静かな郊外の住宅地で、空は薄曇りで、まるで月が影を潜めるように夜の闇が広がっていた。
街角にはオレンジ色のカボチャのランタンが揺れて、通りには仮装した子供たちの声が響いていた。
しかし、アリスはそれどころではなかった。彼女は家に閉じこもり、カーテンの隙間から外を警戒するように覗いていた。
数日前から、何かが彼女を見つめているという感覚があった。
最初は気のせいだと思った。
しかし、夜になると庭先で物音がするようになり、彼女が外を見ると誰もいない。
そんな夜が続き、不安が募っていった。
今夜、ハロウィンの夜は特にひどく、耳を澄ますとカサカサと足音のような音が遠くから聞こえてきた。
時計の針が午前0時に近づくと、アリスは玄関の鍵を何度も確認し、窓もきちんと閉めた。
家の中は不気味な静けさに包まれ、彼女の心拍だけが響く。
ふと、リビングの窓ガラスに誰かが触れたような音が聞こえた。
アリスは息を止め、足音を忍ばせてリビングに向かう。
カーテンの向こうには、人影がぼんやりと映っていた。
「誰…?」彼女は声を震わせながら問いかけたが、返事はない。
心臓が跳ねるような鼓動を抑えながら、アリスは勇気を振り絞ってカーテンを勢いよく開けた。
しかし、そこには何もいなかった。
ただ、霧のようにぼやけた跡がガラスに残っているだけだった。
ホッとしたのも束の間、背後からかすかな気配を感じた。
冷たい風が背中を撫で、アリスは反射的に振り向いた。
そこには、全身黒ずくめの何かが立っていた。
それは人の形をしているが、顔がない。
いや、顔の部分がまるで深い闇の穴のようにぽっかりと空いていた。
「出ていけ…」
アリスは必死に声を絞り出したが、その存在はじっと彼女を見つめているようだった。
次の瞬間、黒い影は手を伸ばし、アリスの腕を掴んだ。
その冷たさは骨の髄までしみこみ、彼女の全身が凍りついたように感じた。
必死にもがくが、声が出ない。
身体も動かない。
まるで時間が止まったように、アリスはその存在に引き込まれていく感覚に襲われた。
意識が遠のく中で、彼女の耳元で低い囁き声が響いた。
「ここは、お前の居場所じゃない…」
突然、アリスの視界が暗転し、気がつくと彼女はリビングの床に倒れていた。
時計を見ると午前3時。
体は冷え切り、頭はぼんやりとしていたが、先ほどの出来事が夢ではないことを示す証拠があった。
腕には冷たい痣がくっきりと残っていたのだ。
その後、アリスは二度と自宅に戻ることはなかった。
家を売り払い、遠く離れた場所に引っ越した。
しかし、どこへ行ってもあの囁きが聞こえるようになった。
「ここは、お前の居場所じゃない…」
新しい街での生活は、最初こそ平穏に思えた。
新しいアパートは明るく、近所の人々も親切だった。
しかし、夜になると再びあの不気味な気配が彼女を包むのだった。
深夜になると窓の外で物音が聞こえ、風が吹いてもいないのにカーテンが揺れることがあった。
アリスは夜中に目を覚まし、いつも見慣れた天井を見上げながら、何かが自分を見下ろしているような感覚に襲われた。
ある晩、アリスはふと目を覚ました。
リビングからかすかな音が聞こえたのだ。
まるで何かが家具を動かしているような音だった。
恐る恐るリビングへと向かうと、そこには真っ暗な影がぼんやりと佇んでいた。
以前見た黒ずくめの存在だった。
アリスは叫ぼうとしたが、声が出ない。
足も動かず、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
黒い影はゆっくりとアリスに向かって手を伸ばした。
彼女は心の中で「お願い、消えて…」と祈るように思ったが、その存在は消えるどころかますます近づいてきた。
その冷たさが肌に触れる直前、突然部屋の明かりがついた。
隣人が訪ねてきてドアをノックした音が聞こえたのだ。
黒い影は一瞬にして消え、リビングには誰もいなかった。
アリスは震える手でドアを開け、心配そうに立っていた隣人の顔を見て涙を流した。
彼女は何も言えず、ただ隣人に感謝の意を込めて首を縦に振った。
しかし、その夜から、彼女の中には新たな恐怖が芽生えた。
いつでも、どこでも、あの存在は彼女を見つけることができるという恐怖だった。
日中でも、ふとした瞬間に背後に視線を感じることがあった。
人混みの中でも、影がちらつくのを感じ、夜が来るたびにアリスは心の中で怯えた。
あの囁き声が徐々に彼女の日常を侵食し始めていた。
「ここは、お前の居場所じゃない…」
その声は彼女の頭の中で何度も反響し、逃げ場のない恐怖に彼女を追い込んでいった。
アリスは次第に疲れ果て、睡眠不足と精神的な消耗が彼女の体と心を蝕んでいった。
誰にも助けを求められず、誰も彼女の言葉を信じてはくれなかった。
医師に相談しても、それは単なるストレスや不安から来る幻覚だと言われた。
しかし、彼女には分かっていた。あれは幻覚ではない。
実際に存在する何かが彼女を追い詰めているのだ。
ある日、アリスは決意した。
もう逃げるのはやめよう、と。彼女はかつての家に戻ることを決めた。
あの夜の出来事が全ての始まりであり、そこに戻らなければこの悪夢は終わらないと感じたのだ。
夕暮れ時、彼女は鍵を手にして、静まり返った古い家の前に立った。
草は生い茂り、玄関の扉はかつての輝きを失っていた。
扉を開けると、冷たい空気が彼女を迎えた。
リビングに足を踏み入れると、そこには静寂が広がっていた。アリスは震える手でカーテンを開け、あの窓を見つめた。
まるで何も変わっていないように思えたが、心の奥底で何かが動いているのを感じた。
彼女は静かに言った。
「ここが私の居場所よ…」
その瞬間、冷たい風が彼女を包み、背後で何かが動く音が聞こえた。
振り向くと、そこには再びあの黒い影が立っていた。
しかし、今回は逃げなかった。
アリスはその存在に向かって一歩踏み出し、冷たい手が再び彼女の腕を掴むのを感じながらも、そのまま目を逸らさなかった。
闇と対峙する中で、彼女はようやく悟った。
逃げ続ける限り、どこにも居場所は見つからないのだと。
彼女はその冷たい手に自分の手を重ね、静かに目を閉じた。
そして、深い闇の中へと引き込まれるように、アリスはその存在と共に消えていった。
ハロウィンの夜、闇に触れた者は、二度と普通の生活に戻ることはできない。
アリスの物語は終わりを迎えたが、その家には今も冷たい風が吹き続けている。
そして、新たな住人が訪れるたびに、囁き声が聞こえるのだ。
「ここは、お前の居場所じゃない…」