横浜市郊外の商店街の一角にある「スナックそなえ」は、毎晩賑わいを見せる場所だ。
外から見ると、どこにでもあるスナックバーのようだが、中に一歩足を踏み入れると、そこには独自の雰囲気が広がっている。
店内の壁には防災に関するポスターや、地震対策のマニュアルが飾られており、一目で小松ママの趣味と知識が感じられる。
その夜、常連の藤本さんがカウンターに座っていた。
彼は40代の営業マンで、出張が多い忙しい日々を送っている。小松ママは笑顔で声をかけた。
「いらっしゃい、藤本さん。今日も忙しそうな顔してるじゃないの」
「ママ、こんばんは。焼酎の水割りをお願い」
「ほいほい、水割りね。お通しも出すから、待ってて」
小松ママはグラスに氷を入れ、焼酎を注ぎ、冷たい水を加えた。
それを藤本さんの前に置きながら、お通しの小鉢を差し出した。
「今日のお通しは『きんぴらごぼう』よ。うちの定番だけど、これは元気が出るからね」
藤本さんは箸で一口食べて、目を細めた。
「うん、やっぱりママのきんぴらは絶品だね。この味、家ではなかなか出せないよ」
「それは当然よ。うちは手作りが売りだからね。それで、今日は何かあった?」
藤本さんは焼酎を一口飲み、少し沈んだ顔で答えた。
「最近、地震が多いからか、出張先で防災の話題が増えてね。でも、家のことが全然手つかずで。家族にも何も準備してなくて、正直ちょっと焦ってるんだ」
「なるほどね。出張が多いと、なかなか自分で準備するのは難しいかもね」
「そうなんだ。でも、何から手をつければいいのかもわからなくて」
小松ママは腕を組んで頷いた。
「じゃあ、まずは家族で話し合うことから始めなさい。地震が来た時に誰が何をするのか、役割を決めておくと安心よ」
「役割…?」
「そうよ。例えば、お子さんがいるなら、避難場所を確認しておくとか。奥さんには非常用持ち出し袋の準備をお願いするとかね。家族みんなでやれば、負担も減るし、気持ちも楽になるわ」
「なるほど。確かに、全部一人でやろうとすると大変だもんな」
「それとね、日常の中でできることもあるわよ。家具を固定したり、非常用の水や食料を少しずつ買い足したり。特に水は大事だから、これだけはすぐにでも準備しなさい」
藤本さんは頷きながら、メモを取るように話を聞いていた。
「水と食料か。それなら今週末にでも買いに行けそうだな」
「いい心がけね。それと、スマホのモバイルバッテリーも忘れないで。災害時には情報が命だからね」
「了解。ママ、話を聞いてくれてありがとう。なんだか気持ちが少し楽になったよ」
「それなら良かった。お酒もお通しも、防災も、全部が心の備えになるのよ」
藤本さんは笑顔になり、グラスを持ち上げた。
「それじゃあ、乾杯しようか」
「乾杯」
二人のグラスが軽やかに触れ合い、藤本さんの緊張が少し解けたようだった。
焼酎の水割りときんぴらごぼうが、彼の揺れる心をそっと支えていた。
スナックそなえでの小松ママのアドバイスは、今日もまた横浜の街に少しずつ安心をもたらしている。
彼女の親身な対応が、地域の人々にとっての心強い支えとなっていることを、小松ママ自身はおそらくまだ知らないのかもしれない。