横浜の夜はしんと静まり返り、「Serendipity」の明かりがほのかに通りを照らしていた。
小松さんはカウンターの中で、グラスを磨きながら、お客さんを迎える準備をしていた。
その夜、ドアが開き、40代の男性が少しためらいがちに入ってきた。
スーツ姿の彼は、鞄を片手に持ちながら、カウンター席に腰を下ろした。
「こんばんは」
「こんばんは。今日はどんな気分ですか?」
「そうですね…少しスパイシーで温まるようなカクテルが飲みたいです」
「でしたら、ホットバタードラムはいかがでしょう。ラムとスパイス、バターの風味が体も心も温めてくれますよ」
「それをお願いします」
小松さんがホットバタードラムを作り始めると、男性は鞄を足元に置き、ゆっくりと息をついた。その顔には少し疲れた表情が浮かんでいた。
「今日はお仕事でお忙しかったんですか?」
「ええ、少し。実は、防災関連の資料をまとめる仕事をしていて…。最近、会社の防災計画を見直すことになったんです」
「防災計画ですか。それは大切なお仕事ですね」
「そうなんです。でも、いざ計画を立て直そうと思うと、どこから手をつければいいのか分からなくて。特に、全社員が関わる計画となると、ハードルが高くて」
小松さんはカクテルを仕上げ、彼の前にそっと置いた。
「ホットバタードラムです。どうぞ」
「ありがとうございます」
彼は一口飲むと、少しだけ表情が和らいだ。
「温かくて、スパイスが効いてて美味しいですね」
「気に入っていただけて良かったです。防災計画を立てる際には、まずリスクを整理することから始めるのが良いと思います」
「リスクを整理する?」
「はい。会社の立地や建物の構造、社員数など、どんな災害が起きたときにどんな影響があるかをリストアップしてみてください。それができれば、優先順位をつけやすくなります」
「なるほど…まずはリスクを明確にするんですね」
「そうです。それから、社員の皆さんがどのように協力できるかを考えることも大切です。避難訓練を行うだけでなく、災害時の連絡手段を確認したり、チームごとに役割を分けておくのも良い方法です」
「確かに、全員が何をすればいいか分かっている方が、混乱を防げそうですね」
「ええ。そして、防災意識を高めるためには、日常の延長線上で取り組める小さな工夫を取り入れることも効果的です。例えば、非常食をオフィスで定期的に試食してみるのも面白いかもしれません」
彼は少し笑いながら、「非常食の試食ですか。それは意外と楽しそうですね」と言った。
「そうなんです。楽しさを取り入れることで、防災に対するハードルが下がりますし、社員同士のコミュニケーションも深まりますよ」
「ありがとうございます、小松さん。少しだけですが、進むべき方向が見えてきた気がします」
「いつでもお待ちしています。ここは素敵な偶然が待っている場所ですから」
彼はホットバタードラムを飲み干し、満足げな表情で席を立った。
小松さんのアドバイスを胸に、会社の防災計画を一歩ずつ進めていく自信を取り戻し、夜の横浜の街へと戻っていった。
その夜もまた、「Serendipity」で生まれた人と人との温かい交流が、小松さんの心に深い満足感をもたらした。